急にメジャーなマンガの話をして恐縮です。
いや、言うほどメジャーなマンガだろうか。
マンガ好きにとってはドメジャーかもしれないが、
一般的には豪華キャストでドラマ化映画化されてる割に話題になってないような・・・
それでいいのです。
この何とも言えない扱いづらさが彼岸島というマンガの唯一無二の個性を示しています。
この記事は「彼岸島」コミックシリーズのエッセンスを筆者の考察と好みに基づき好き勝手に語るものです。
本編ネタバレを含みますのでご了承ください。
彼岸島はとても面白いという前提で書いてますので、信者見苦しいぞという方は読まない方がいいです。
なお彼岸島をネタ扱いしない世にも珍しい記事となります。
っていうかWikipediaですらネタ扱いバイアスのかかりまくった書き方しててまことに遺憾。
安易なネットミーム扱いや表面的なツッコミなんか個人的には「つまらんやめろやめろ」であって、
よく見かけるネタには否定的なことを書くと思いますがこちらもご了承ください。
ウルセェな丸太くらい好きなだけ振り回させてやれよ!
概要:彼岸島(松本 光司、2003年~)
松本光司先生の代表作。講談社ヤングマガジンにて連載中。
本編シリーズは2023年8月現在以下の通り。
- 彼岸島:全1~33巻
- 彼岸島 最後の47日間:全1~16巻
- 彼岸島 48日後…:連載中
あらすじは「血液感染する吸血鬼とその親玉・雅を倒すため、宮本明と仲間たちが戦う話」です。
以下、48日後の30巻くらいまでの内容を普通に記載していますので未読の方はご注意を1。
それ以降の展開にはこの後の記述がそぐわない点もありますので悪しからず。
追記更新してるとキリがないのでガマンします。
【2024/08/30追記:描かれているのは「人間」】
ガマンできずにちょいと更新しました。エッセンス的なところだからどうしても書いておきたかった。
彼岸島シリーズのエッセンス
このマンガは「サバイバルホラー」と称されることが多いですが、実際に読んでみると印象変わってきます。
そもそも特定のジャンルを求めてこのマンガを読むのはおすすめしません。
一見単純なストーリーに見えてとっつきやすい彼岸島ですが、中身は相当な混沌(いい意味)です。
型にはめる前提で読んでいると楽しめない部分が多く出てくるはず。示された展開をただ受け入れるのです。
さて、3シリーズそれぞれで雰囲気の変遷はあるものの、全体を貫くキーワードを組み合わせると「宮本明というヒーローの人間にとっての地獄における戦いを記号的に描くドキュメンタリー」と呼べるように思います。
※48日後が進むにつれて、ここで言う「宮本明」は他のキャラクターにも重ねられるようになっていきます。
宮本明というヒーロー
このシリーズの主軸は宮本明というヒーローです。ここを見誤ると面倒なことになる。
順番通り読んでいくと、一般人だった明が突如として強キャラになるため「ホラーだと思ってたのに明無双になってついていけない」みたいな声は当然あるでしょう。週刊連載ですからまあ仕方ない。
ですがシリーズの全体像が見えてきた今、逆にこう考えるのです。
「無双する明を描くために、当初はそのオリジンを描いていたにすぎない」と。
めちゃめちゃ強い明に対して、彼がそうまで強くなるに至った経緯が無印当初のオーソドックスな青春系サバイバルホラーパート。
で、48日後のいっさい怯まない強靭な精神を持つ明に対しては、もう無印~47日間まで含む全体がまるっとオリジン。
明は文字通りの主人公であって、このシリーズの核、むしろシリーズそのものだととらえるべきでしょう。
明さんの死はシリーズの死であると(比喩です)。
彼岸島を群像劇的なサバイバルホラーだと思ってしまうと明への主人公補正に違和感を覚えるのは当然ですが、その前提が正しくない。
このシリーズを「明というヒーローが吸血鬼と戦う話」だと思えば、彼がザンザンと敵を斬り刻むのはごく当然のことだと思えます。
暴れん坊将軍です。アカギです。サムライジャックです。
強い主人公の戦いを見て格好いいな~と思うのはまったくもって正しい楽しみ方だと言えましょう。
そして明さんの魅力は強さ一辺倒ではない。シリーズを通して常に変化を見せてくれるところにもあります。
一番分かりやすいのが修行前後の変化であることは確かですが、無印→47日間→48日後 の各エピソードを経るごとにさらに変わっていきます。
この変化も決して「成長していく」ではなく、紆余曲折です。
加えてこれが巧みに、芯は変わっていないことを踏まえた変化として描かれている。
この流動性が明というキャラクターを生き生きと見せ、読者としては魅力を感じずにいられません。
ついでに言うと、明の仇である悪のカリスマが雅。
彼岸島ではほぼすべてのキャラクターをものすごく記号的に扱っていますが、明と雅の二人はキャラクターとして圧倒的な魅力を発している(後述します)。
この二人が描かれること自体を楽しむのも、彼岸島の適切な鑑賞方法だと言えましょう。
人間にとっての地獄
松本先生って雅と同じくらい人間嫌いなのでは?
と思ってしまうくらい、彼岸島における人間はそれはもうひたすら酷い目に遭います。
シチュエーションとして「人間が吸血鬼に家畜以下の扱いを受ける島」なので虐げられるのは必然ですが、状況のみならず、ストーリー展開としても人間は基本的に不幸になります。全員不幸になると言っても過言ではないかもしれない。
加えて彼岸島に登場する人間たちは非常に人間臭く、言ってしまえば自分の欲望に負けがちです。
一市民だろうが、レジスタンスの戦士だろうが、老若男女を問わずだいたいの人間が自分だけ助かりたくて仕方ない。
助けてくれ、死にたくないと叫び、あがく人間の浅ましい姿。絶望的な状況下において、恐怖に慄いたり投げやりになったり舞い上がったり狂おうとしてみたりと、非合理に揺れ動く人間の胸中がひたすら生々しく描写されます。
で、そんな人間臭さをこれでもかと見せつけてくれる彼らはもちろん無情に殺されていきます2。
人間から変態した吸血鬼がクソの塊みたいな連中ばっかりなのも、吸血鬼からさらに変態した邪鬼がもれなく醜悪な見た目と習性を誇るのも、人間の本質がそんな醜い物であるという思想を感じますね。
ただそんな中でも時折、我が身のかわいさや恐怖を乗り越えて、高潔なる意志のもと他者を守ろうとする人物が現れます。
それまでさんざん人間の弱さを見せつけられてきた読者ですから、そんなヒーロー魂を目の当たりにしたらそれはもう感動せざるをえない。
ところがそういった徳の高い人物であってもあっさり死にます。
残念ながら人間は吸血鬼にかなわないのです。
このように容赦のない世界であるにも関わらず、劇中でカメラを向けられる人間たちはたいてい、仲間への強い愛情を持っていることも描かれます。
前述の性悪説的なものにのっとった表面上だけの愛情だったりもしますが、心からの強い愛情であることもある。
やっぱり人間には愛が大切なんだ、と希望を持たせておいて、その愛情が強ければ強いほどその人はたいてい凄惨な最期を迎えます。愛を抱く者の死によって愛の強さが強調されるのです2。
この残酷な世界の最大の犠牲者は誰か。
そう、明さんです。後で話しましょう。
記号的な表現
これも見誤ると楽しめなくなっちゃうところ。
簡単に言えば「彼岸島に物質的リアリティを求めてはいけない」です。
トムとジェリーに対して「普通の猫はこんなことしない」などと言うの同じで、野暮天な指摘なのです。
ここで記号的とは「デフォルメされた」「簡略化された」「意味だけを強調した」みたいな意味で使ってますので悪しからず。
記号的な戦略:うまくいく前提の手段
明たちは戦いのために様々な策を打つことがありますが、そのほとんどは記号的な意味合いしか持ちません。
つまりその策自体が「果たして機能するか?」と話題に上げられることはなく、必要な条件を整えるために「機能することは前提」なのです。
明のワクチンの注射器で例えれば、「そのシャツに内ポケットがあるとは思えん」「あんなの入れたらあからさまに膨らむのでは?」などという突っ込みに意味はありません。
これを雅のドタマにぶっ刺す場面を描くことが目的である以上、隠し持ってさえいればよく、具体的な手段はどうでもいい。
これを違和感と呼んでいいかどうかは、作品が何を見せようとしているかに拠ってきます。
同じヤンマガのカイジと対比すれば分かりやすいかもしれません。
カイジはぶっとんだシチュエーションのようでいて、主人公の考える策は非常にミクロなレベルの実現可能性を追求しています。読者に対しても「敵にばれない理由」「成功する理由」を必ず合理的に説明してくれる。
これはカイジというシリーズ(もしくは福本先生)の特性として、「この限られた状況下で敵をどう攻略するか」というリアルな過程を重視しているから。
結果ありきではなく、大事なのはどんな策を打ちそれがどう機能していったかという過程です。
カイジならたぶん注射器を敵にバレないようにどこかに仕込む描写が含まれたことでしょう。
彼岸島を同じように読もうとしたらひっかかってしまいます。
なんせ明さんは合理的な勝機をもって敵に挑みません。とりあえず挑んでみて、後は何とかする。
結果を導くために必要な条件があれば何らかの対応をするものの、その方法はあくまで記号的・簡略的にしか描写されません。
楽しむポイントは条件をクリアする方法じゃなく、クリアした上での次の展開だからです。
島がどんどん広くなってることとか、孤島の割に人口がやたら多いこととか、明さんが8か月程度で異様に強くなったこととか、高いところから落ちてもなぜかぴんぴんしてることとか、毎回血まみれになってる服がいつのまにか染み一つなくなってることとか、明さんのヒゲが一定以上伸びないこととか、とん汁の具材をどこから入手してるのかとか、そんなこともどうでもいいのです。
ギャグマンガと同じです。そういうものです。
しかしそういうものがネタにしか見えない、本当にギャグマンガにしか見えない、というのはヒジョーにもったいないことだと思います。
「そういうもの」を受け入れた上で一歩先に進むと別のおもしろさが見えてくるかもしれません。
無印終盤のケンちゃんの動向についてもですねぇ。
大変な状況に陥るケンちゃんを「うかつすぎ」とするツッコミをよく見ますが、自分としてはソコジャナイです。
経路とかどうでもいいのです。そこに変な納得感など丁寧に持たせる必要はない。
そんなことより、ケンちゃんが誰の手も借りずに達成した後にも先にも例のない大仕事こそ重要。
・・・ので自分としてのツッコミどころは、この件が雅にも明にも割とスルーされて話題にされなかったあたりですね2。
さておき、事態をややこしくしているのは、画は書き込みが多く写実的であるということ。
この緻密な絵面のせいで、一見するとどうしてもリアリティ指向に見えてしまうのは仕方ありません。
個人的にはこの記号的な内容に対する写実的な表現というアンバランスさが、混沌をいっそう掻き回していてとても好き。
そのせいで変にツッコミどころができちゃうんですけども。
画に関して言うと、人間の顔だけは写実というより記号化が強め2ですが、こちらこちらで絶妙なバランスがすばらしい。
登場人物全員が分かりやすく特徴的に描き分けられてる上、個々のキャラは非常に表情豊かで心情をしっかり見せてくれる。
松本先生は単純に絵がうまいのに加えて、人物の表情の描写が本当に巧みです。顔で複雑な気持ちが見て取れる。
つくづく彼岸島はマンガという形式にぴったり合った作品だなあと思っております。
記号的な吸血鬼:殺すしかない敵
人間も吸血鬼もたくさんのキャラクターが出てくる彼岸島ですが、全体的に記号化されており「○○するためのキャラ」「明の○○」という役割が振られている感が強めです。
とりわけ吸血鬼のみなさんは記号化が顕著。
彼らももともと人間だったという以上、本来はそれぞれの性格や趣味嗜好があるはずなのですが、感染して吸血鬼になるやほぼ漏れなく血と暴力と女が大好きな下衆野郎という型にはまったキャラになってしまいます。
というのも吸血鬼の個性など本筋に関係ないどうでもいいことだからです。
吸血鬼は明に斬り捨てられるのが役割であって、それ以外は無用。
その一方、ときおり「人間らしい」吸血鬼が現れて明の心を乱したり、吸血鬼とはいえ人間と変わらないかもという希望を抱かせることもあります。
が、結論は変わりません。
吸血鬼は人間の血を吸わずにいられない化物であり、明はいくら情のある相手だろうと泣きながら殺します。
こういう種族対立的な物語には「共生の道を探る」展開がつきものですが、彼岸島においては吸血鬼も雅も人間にとって純粋なる悪でしかありません3。
吸血鬼が人間に対する悪であるという絶対的な図式と、それを分かりやすく示す記号化された吸血鬼像はこのシリーズの特徴だと言えます。
もしくは雅の血の影響で変な人格改変が起こってるのかも、と勝手な解釈を入れてみたりして。
人間のことクソ嫌いな雅様の残忍さとか暴力性とか衝動性がインプットされちゃうけど、篤とか斧神みたいにもとの精神力が強靭なら影響されにくい的な。
だとしたらたぶん女子にも影響しにくいんだろうな。
だとしたら吸血鬼のみなさんが思いつきで行動したり油断してあっさり反撃を許したりするのも雅エキスのせい・・・。
記号的じゃないクリーチャー:何よりも緻密な描写
ここまで記号的に簡略化された要素を挙げてきましたが、邪鬼を始めとするクリーチャーは方向性が違います。
画はもちろん、見た目のデザインそのものや行動・習性がやたら細かく現実的。
誰かしらの解説役がまるで実在する獣かのように合理的な説明をしてくれるせいで、存在に妙な説得力を感じてしまいます。
現実離れした異形のクリーチャーが一番地に足の付いた描写をされているというこの混沌たるや。
その一方、松本先生の描くクリーチャーはグロテスクなようでいてなんだか幻想的で爽やかにも思えます(個人の感想です)。
爽やかというのは語弊があるかもしれませんが、変な生々しさがないというか、世俗的でないというか、神話的な印象なんですよね。
字面というか、理屈としては「醜悪な見た目」「嫌悪感を掻き立てる習性」を持つのかもしれないが、その気持ち悪さ自体にある種の美意識を感じるというか、そんな感じです。
ちなみに、自分が一番生理的にぞっとしたのは精二の素顔。ごめん鮫島。
爽やかと言えば、拷問描写も割と爽やかですね。ぶつだけとか切刻むだけとか、ねちっこさがなく清々しい(個人の感想です)。
このへんもカイジと対比すればよく分かります。福本先生の描く拷問は地味なのに確実に精神を追いつめるような粘りつく重さがある(それはそれで好き)。
彼岸島の拷問は派手に血しぶきが飛ぶし悲鳴も上がるけど、単純でカラッとしている。
陰の拷問、陽の拷問と呼ぼうか。
ドキュメンタリー:明の戦いをひたすら記録
一般的に言われる「サバイバルホラー」が違うとしたらなんと呼ぶ、と考えたときに「ドキュメンタリー」が適当な気がしています。
サバイバルと言うと、限られたシチュエーション下で生き延びる「策」を重視するように思える。
ホラーと呼んでしまうと、恐怖を掻き立てることが指向されているように思える。
どちらの要素も含んでいることは確かなのですが、それはあくまで部分的な話。
全体を通して考えると、要所要所で起こった出来事の記録と呼んだ方がいいように思えてきます。
その中における登場人物が、あるときは世にも恐ろしい目に遭い、あるときは敵の目をかいくぐって任務を達成し、あるときは甘酸っぱい青春模様に心揺さぶられる。
人喰い怪物がうごめく絶海の孤島において、あるいはポストアポカリプスの世界の中で、明たちに「何が起こったか」がひたすらに記述されていく。
自分はそんなふうに捉えているものですから、「展開が遅い」「話が進まない」などという文句はまるで生じません。
むしろ変に展開しないでほしいとすら思ってしまいます(個人の感想です)。
ずっと読んでいたい4。明は雅を殺せなくていいよ、もっと戦ってようよ。
ともあれ、彼岸島は青写真を見るよりも、個々のエピソード一つ一つに寄り添って楽しんだ方がいいんじゃないかと思う次第です。
描かれているのは「人間」(2024/08/30追記)
じゃあこのドキュメンタリーの主題はなんなのか。それは「人間のありかた」ではないでしょうか。
上記の通り、彼岸島において人間と吸血鬼はハッキリ別物とされています。
人間が吸血鬼に「なる」ことは確か。しかし、彼岸島の人間は決して自ら吸血鬼になることを望みません。
これが他の感染モノ作品と大きく異なる特徴のように思えます。
損得で考えたらどうでしょう?
彼岸島、または感染の広がった本土において、マジョリティは吸血鬼です。
人間は人間であるというだけで、吸血鬼に対してなすすべはありません。殺されようが拷問されようが、抵抗すら許されない。
人間からしてみれば、吸血鬼は強く、死ぬこともなく、自由な生き方が許されている存在。
もしも人間が吸血鬼になれば、虐げられる立場を脱し、逆に人間を好きに玩弄できる強者の立場に回れるのです2。
しかし彼岸島で吸血鬼に苦しめられている人間たちは、「自ら吸血鬼になる」ということを選びません。
選ばないどころかそんな発想すらない。
人間がその選択肢を意識するのは、懇意の吸血鬼から誘われたときだけ。そして誘われた人間は、苦渋の決断として断ります。
これの意味するところは、人間が人間であることの価値を無条件に認めているということではないでしょうか。
吸血鬼になる方が楽かもしれない。幸せかもしれない。
それでも、人間であり続けることが正しいのだと、意識/無意識にかかわらず信じている。
「死にたくない!」「殺さないで!」ともがきながらも、人間であることを自らやめようとはしないのだから。
一方、不可逆的に吸血鬼になってしまった者たちの方は・・・と書き始めるとまた長くなるので自重します2。
とにかく、彼岸島では確かに人間がひどい目に遭います。人間にとって世界は確かに地獄です。
ですがその凄惨さが逆説的に、人間の尊さを描き出しているのではないかと改めて感じます。
「ホラー」という言葉のそぐわなさや、読後感の妙な爽やかさ(後述)はここから来ているのでしょう。
ここが大好き彼岸島
すいません。先に謝っておくと、なぜ自分がこうも彼岸島に惹かれるのかは説明できません。
説明できないぞということをこれから説明するのでよろしくお願いします。
セオリー無視なのになぜか気にならない
肉弾戦頭脳戦にかかわらず、バトルもののセオリーをみなさんご存じでしょうか。
- 先に仕掛けた方が負ける
- 先攻は負ける
- 作戦をしゃべり出したら負ける
- 「やったか!?」は絶対やってない
この辺りですね。一般化して言うと「読者に説明がなされた場合、それを裏切ることが起きる」って感じ。
これはエンターテイメントとしてしごく当然な仕組みです。
だって意外なことが起こった方が普通はおもしろく感じますからね。
「この後どうなるんだ!?」とハラハラさせて、「なるほど、その手があったか!」とスカッとさせる。
「これはやっただろ…」と安心させておいて、「なにィ、まだ立ち上がるだと!?」とショックを与える。
意外性がないと、「こうなるんだろうなー」「ふーん、やっぱりな」と平坦な感想になってしまうはず。
予想を裏切るということは、マンガに限らずあらゆるフィクションのおもしろさを支える要素です。
・・・なんですが、彼岸島ではぜんぶ先に言っちゃうんです。
「今からこれをするぞ!」「この作戦で行くぞ!」とまず宣言してしまう。
で、言った通りに事が運ぶ。
上に書いたセオリーを真向否定です。意外性とかありゃしません、だって先に教えてくれるんだもん。
ところが、にもかかわらずおもしろいんです。
なんでしょう、これ。理屈に合わん。
明さんが「こうするぞ!」って策を教えてくれたとき、自分は読者として「そううまくはいくまい。きっと何か邪魔が入って予定外の代替案を取ることになるのだろう」と予想します。
確かに、ちょっとした邪魔が入ることはあります。
が、最終的には当初の作戦がうまくいきます。
予定調和じゃないか!「ふーん、やっぱりな」って平坦な感想になるんじゃないのか!?
これがなぜかならないんですね。不気味ですね。
不気味で済ませるのもナンなので、なんとか説明をつけてみます。
当初の宣言通りに事が運ぶのを見てどう思うかというと、少なくとも「ふーん」ではありません。
どちらかというと「なんだよ脅かしやがって」でしょうか。「結局それでいけちゃうんかい」かも。
とすると、策に対する信頼性が低いというのが肝なのかもしれません。
本当にそれでいけるのかという疑いがあるおかげで、実際やってみたらどうなるかを追いたくなる。
言い方を変えると、その策の結果がどうなるのかではなく、策に従って場がどう動いていくかの過程が感情を動かすポイントなのかも。
あれ、さっき「記号的な戦略」の項で真逆のこと書いてましたよね。
「策が機能する過程じゃなく、その結果どうなるかの方が大事である」と偉そうに書いた記憶がある。
なぜだ。理がねじれているのか。
そうじゃないですね。自分の「結果」という言葉遣いが悪いだけで本質は同じです。
ある作戦を取る場面には次の4つの要素があります。
①作戦を立てる
②作戦を実行する
③作戦の結果が出る
④結果を受けて場が展開する
カイジとかライアーゲームみたいにリアリティ指向な作品だと、特に大事なのは①と③。成功につながる説得力が最も大切です。
一方、彼岸島の場合に大事なのは②と④。むしろ①と③が潔いほど軽視されているというのが際立った特徴でしょう。
作戦は誰かが思いつきます。で、どうせうまくいきます。
そんなことより、成功の過程でどんな悲惨なことを経て、成功したにもかかわらずどんな悲惨な展開が待ち受けているのかと、そっちの方がよっぽど大切なわけです。
紙面や松本先生のリソースはその大事な方を描くことに割かれるため、①とかそこに至るきっかけとかの細かい部分なんかは省略されてしまうわけです。無事、話がつながりました。
なんとなく説明っぽいものができた気がするので、満足して次に行きましょう。
整合が取れてなくてもなぜか気にならない
ディスってるわけではありますんが、彼岸島シリーズはまあ行き当たりばったりです。
週刊連載だから当然とも言えなくはないんですが、
明さんも基本的には圧倒的強さでゴリ押しスタイルなもので、計画性というものはまずありません。
これが悪の親玉である雅も同じ。
雅の言ってることやってることはあんまり一貫性がありません。
人間が大嫌いだという前提だけは揺るぎないのですが「じゃあ何がしたいのか?」にまるでつかみどころがありません。
もうちょっとメタな視点でも、吸血鬼やシチュエーションに関する設定はかなりユルユル。
以前に説明されたはずの要素がフェードアウトして「おや、あれはどうなった?」と思うこともままあります。
が、別にそれでいいんです。
むしろ変に一貫性があってしまったら、この混沌と説明のつかない魅力は生じないんじゃないかとすら思える。
明さんが後先考えずとりあえずで行動する。
全然かまいません。明さんは「とりあえず行ってみよう。あとはなんとかする」で実際になんとかしてしまいます。変にネチネチとシミュレーションを繰り返すのは、直観的な明さんの性格に似合わない気がします。
雅様が急に妙なプロジェクトを前から考えてたみたいに言い出す。
全然かまいません。雅がいかに以前の言動を忘れて別のことを始めようが、それはそれで気まぐれな雅らしいと思えてしまう。むしろ不合理である方が不気味さを掻き立てます。
満月の夜は吸血鬼が出歩かない設定がたぶん忘れられてる。
全然かまいません。そもそも吸血鬼に関する学会なんてないわけで、人間たちが知っていることは全部噂でしかない。ひょっとしたら雅様の気まぐれな命令だったかもしれないし、あるいは吸血鬼の性質自体が変容しているのかもしれない。
・・・と例を書いてみましたが、言いたいのは「整合性が取れていないこと自体、物語の要素として楽しめる」ってこと。
ツッコミを入れてギャグとして楽しむって人もいるかもしれません。
自分としてはこれもそういうものとして受け取り、イイ感じの解釈をあれこれ考えて楽しんでます。
そしてひょっとしたら、整合性のなかったはずのところが、後になって噛み合うのもありえます。つまり、松本先生が前に書いたことをふと思い出すとか・・・。
ただこれがおもしろさになるのは、やはり揺るぎのない「吸血鬼は人間にとっての悪」という軸があるからこそ。
ここだけはブレません。
この基盤がしっかりしているから、その上に載っている細々した事情がぼんやりしていてもたいしたことはない。
つまるところ、彼岸島はメリハリがはっきりしているわけです。
大事なところはしっかり主張、そうじゃないところは省略。
大胆にも「省略」をやってのけるところに魅力があるんじゃないかなと思う次第です。
なぜか暗い気持ちにならない
厭なことしか起きないと言っても過言ではない2彼岸島シリーズなのですが、なぜか読後感が爽やかです(個人の感想です)。
物理的に凄惨な暴力、精神的に追い詰められた人間の醜態、嫌だともがく人々を嘲笑うかのように淡々と襲い来る死の描写。必死に戦った仲間が自らを犠牲にするときに見せる笑顔。愛する者に向けざるをえない悲壮な刃。
そんなものが目白押しなのにもかかわらず、なぜか彼岸島を読んでてもあまり暗い気持ちになりません。
「ああ、読んだらどっと疲れた・・・」というより「うーん、つい読みたくなっちゃうなあ」です。
これの良し悪し自体は別問題ですが、このなぜか暗くない読後感が彼岸島の妙な中毒性を生んでいるように思います。
じゃあなぜ暗くならないのか?
もちろん上述の細かいことが省略されているのも一つの要素でしょうが、
それ以上に、厭なことはすべて明さんが引き取ってくれるからです。
このシリーズで次々生み出される重く粘つくマイナスの感情たちは、ぜんぶ明さんがザンと斬り捨て、斬り刻み、きれいさっぱり片付けてくれます。
明さんはその斬り刻んだものをまとめてご丁寧に抱えて歩くのでさぞおつらいはずですが、まるで疲れを見せません。さすが明さん。
すなわち、明という絶対的なヒーローの存在が読者にとっても希望をもたらしてくれているわけです。
明の強さだけではなく、その潔さもポイント。
涙もろい明さんですが悩み続けることなく(表に見せず)、きっちり自分の気持ちにケリをつけてくれる。
「こうなった以上、自分はこうするだけ」という確固たる信念を見せてくれるおかげで、我々は遠慮なく「じゃあ明さんお願いします!」と任せられるわけです。
そして一つの事件が片付いたときも、エピソードの終わりは必ず「よし、次に行くぞ!」と前向きなコマで飾られます。
この信頼感と前向きな姿勢のせいで、それまでいかに吐き気を催す描写があったとしても「いやーよかったよかった」で終わらせられてしまう。
つまり我々も明さんに力技で押し切られてるってことですかね。
結局、感覚で候
「なぜか」「なぜか」と表現してますが、要は自分の感覚が松本先生と合ってるんだってことな気はします。
強調されている要素を楽しめると同時に、省略されている要素を「省略されても別にいい」と思える感覚があるってこと。
これはものの捉え方全般に関するものです。
例えば駅から自宅への道のりを説明するときに、地図のような俯瞰図を想像する人と、主観カメラのような像を想像する人とに分かれるかと思います。
例えば小説を読むときに、登場人物を俳優に当てはめて想像したくなる人と、具体的な顔がなくても読み進められる人とがいるでしょう。
例えば歌を聴くときに、自然に歌詞を聞き取ってその意味を味わう人と、歌詞の意味なんてあえて意識しないと頭に入らない人とがいるでしょう。
一方が自然であると感じる人は、もう一方の方が自然だと感じる人の感覚はピンとこないはず。
ピンとこない感じが強ければ「いや、そうはならんでしょ」=「ツッコミどころにしか見えない」視方につながります。
正しいとか間違ってるとかじゃなく、感覚が違うというだけ。
ここまで私が何を言っているのか全く理解できない人も多いことでしょう。
つまり、おもしろさの根拠は感覚なので説明なんかできないでヤンスという結論です。
ゆえに、感覚が合わない人に魅力を伝えることはできないだろうと身も蓋もないことを考えてたりします。
この記事を「彼岸島が好きである前提」のもとに書いているのはそういうことであります5。
安易なネタ扱いは・・・
何年か前、深夜ドラマを見かけたのをきっかけに一度5巻くらいまで無印シリーズを読んだことがありました。
そのときにはあまりハマらなかったわけですが、なんでかっていうと「ネタ扱い」な先入観があったからじゃないかとちょっぴり思います。
ネット上で有名な彼岸島のネタといえば「丸太」ですね。自分もこれだけは知ってました。
ただ、今さらシリーズ読んだ上で個人的にはあまりピンとこなくなってます。丸太、そこまで変に目立ちますかね6?
当初、兄貴が丸太で襲ってくるのは確かに印象的です。明も亡者との戦いでは丸太を振るうことになりました。
が、その後の明さんの得物といえば日本刀ですし、丸太を使うのには「潰すため」という理由がある。
このへんもやはり、丸太の存在感強めだった連載当初のネタが独り歩きしてるだけなのだろうという印象です。
それはそれでいいんですけど、「彼岸島と言えば丸太」と言うのは安易すぎてネタとして面白くありません(個人の感想です)7。
こういう1コマを切り取ったミームとしてより、話の流れを読み取った上での面白いネタ扱いをしたいものです。
「それくらい気づくだろ」というツッコミもいまいち無粋(個人の感想です)。
我々は読者だから気づくけど、当人の状況になってみればそう理屈通りにはいかないはず8。
明さんや雅がよくやるポカについても「いやそこは気づけよ」とツッコむより「えらく面白いポカですね」と指を差して笑うだけで面白かろうと思ったりします(個人の感想です)。
ついでに兄貴の擁護もさせてください。
「人類の大戦犯」的によくいじられてる兄貴ですが、兄貴は正しかったはず。
よく考えてください、みなさん。
吸血鬼なんて存在しないんです。ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから。
普段人が立ち入らないようなところに閉じ込められたらしき人の声がしたら、見捨てる方がひどいでしょうが!
というわけでネタにするなら、結果論な兄貴いじりよりも雅様のくさい芝居にしましょう。
おもしろいネタ扱いをお願いします
「話の流れを読み取った上での面白いネタ扱いをしたい」と上に書きました。
ネットで流行ってしまうのはこのコマの切り取りです。
なんせ彼岸島シリーズには、本編を知らない人でもこのコマだけ見たらそりゃ笑えるというシーンがあふれているゆえ。
それが「みんな丸太は持ったか!」だったり「お前に喰わせるクソなんかねェよ!」だったりします。
が、そんな安易なツッコミは野暮天のきわみ(個人の感想です)。
何事もそうですが、任意の一部分を切り取ることはそのものの本質を見誤ります。
上記のセリフについても「前後の流れを踏まえればまあ自然なセリフである」と分かっているからこそ、「コマだけ見たら面白い」が際立つはず。
そこを無視してコマだけ面白がるのはちょっとずれてるように思います。ポイントを逃していると言いますか。
この、いい感じに「流れに沿ったネタ」を見せてくれるのが、スピンオフコミックの『彼、岸島』ですね。
佐世 保太郎先生による公式スピンオフ、講談社ヤングマガジンにて連載。
全4巻、完結済みです。
これは無印の彼岸島本編のストーリーに対して、主人公の岸島が裏からツッコミを入れまくるというコメディ。
彼岸島本編のシーンをマジでそのまま流しているにも関わらず、ツッコミ対象にはまず事欠きません。
岸島のツッコミというのは表面的なものが少なく、話の流れを踏まえたツッコミが主であるのが秀逸。
最初の結婚式のくだりなんかまさにそう。なぜあれがツッコミどころになるのかというのは、本編の状況を理解していればいるほど面白く感じるでしょう。
田中さんいじりなんかも、彼のこれまでの立場を踏まえてるからこその笑いどころ。
(逆に満腹爺戦とか終盤ケンちゃんのあたりのネタは自分には安易に見えてハマりませんでした。まあそういうのもある)
無印のストーリーを命がけで追ってくれた岸島の冒険は、ちょっぴりほっこりする結末でいったん幕を下ろしました。
彼がどうなったのかは不明ですが、またいずれ明さんたちをストーキングしてくれたら面白いなぁなどと思っております。
さて、いろいろしゃべってきましたが、
彼岸島を「ギャグにしか見えない」などと自分はまったく思いません(しつこいですが個人の感想です)。
笑っちゃう場面がめちゃくちゃあることは確かです。シリアスな場面にも拘わらず笑えることもある。
ですがその「なんか笑えちゃう」というものも、あくまでそのシーンの1要素に過ぎません。
やはり混沌なんです、彼岸島。
ホラーなだけじゃない、笑えるだけじゃない、暗いのに明るい、人間の精神をリアルに追い詰める一方で打開策は現実味がない、人間は記号気味なのに醜悪な化物はこれでもかと個性が際立っている、めちゃくちゃなようでいて謎の納得感がある。
どんな心持で読めばいいのか正直分かりません。
でもなぜか繰り返し読みたくなる不思議な魅力があるのです。
説明できないことは充分説明できたと思いますので、次に行きましょう。
絶対的主要キャラ:最強ヒーローと悪のカリスマ
彼岸島のキャラといえば、「明さん」と答える人と「雅様」と答える人とがいることでしょう。松本先生は雅って言いそうと思いきや好きなキャラはやっぱり明っておっしゃってました2。
一見すると群像劇風な彼岸島ですが、やはり物語の根幹は明と雅という二人のキャラクターに強く拠っています。
というのも物語のシチュエーションがこの二人ありきの構造だからであって、彼ら無しでは彼岸島シリーズ全体の魅力が揺らいでしまうはず。
というわけで二人のキャラクターについて語ります。この記事まだ続くんかい。
宮本明:大いなる力と大いなる責任を負う男
明さんです。
どこから説明したらいいか分からないほど密度ぎっしりの男。
大いなる力
明さんは強いです。
常人離れした腕力、耐久力、機敏さ、反射神経、動体視力があるのはもちろん、スパイダーセンス、ウォールクローリング等のスーパーパワーも兼ね備えている可能性があります。ちょっとしたヒーリングファクターもたぶんありますね。いつもローファー履いてるくせに二段ジャンプや壁キックもできそうです。その気になればエネルギーブラストの一つや二つ放てるでしょう。
冗談はさておき、明さんの戦闘力の高さは「そういうもの」の一つ、つまりもはや自明の前提です。
少年漫画ならそうなるための修行編を数ヶ月かけてやるものでしょうが、そんなもんは省略ですね。
この強さは宮本明というキャラクターを構成するコア。明さんが強キャラであること前提で各エピソードが展開していきます。
彼岸島シリーズの「うまくいく前提」を機能させているのも彼の強さのお陰。
物語づくりに定評がある割に何事にもプロットを描かない明さんは、だいたいの場面で「とりあえず行ってみよう」「それは後で考えよう」とか言って見切り発車します。
で、実際なんとかなります。
ご都合と言われそうなこの展開を「明ならいける!」「さすが明!」で済ませられるのも、明がとんでもなく強いことが単なる事実として共有されているからなわけです。
これはある意味仕方のない設定でもあります。
なんせ、この世界では飽くまで「普通の人間は吸血鬼に勝てない」のです。
ここをブレさせないためには、主人公は普通の人間も吸血鬼も遥かに凌駕した強さを持っていないといけません。
普通のキャラが生き延びられたら、普通の人間でもなんとかなる程度のぬるい世界になってしまうわけですから。
裏を返せば、明さんが鬼のように強い描写は「普通の人間にとってこの世が地獄であることの強調」と受け取れます。
そんな世界を、なまじ強いがゆえに生き続けなければならない。
「こんなに強いなんて明さんは恵まれてるなあ~」ではありません。
「こんなに強くちゃ明さんも大変だろうな・・・」です。
大いなる責任
明さんの強さは武器でもあり、彼をがんじがらめにする桎梏でもあります。
大いなる力を手にしたらみなさんどうしますか?
平和な世界ならその力を振るう機会もそうそうないでしょうから、実力を隠してスローライフを送ることは可能かもしれません。
が、彼岸島は殺るか殺られるかの無法地帯。生きるためには、力を行使して敵を退ける他ありません。
強さを出し惜しむ余裕などないのです。そんなことしたら死が待っているのみ。
つまり当然のことですが、強くなかったら明はもう死んでます。
そして当然のことですが、明ほど強くない人間たちは死んでいきます。
畢竟、明さんは独りぼっちで遺されていきます7。
明は強い一方、ものすごく情に厚い。
兄貴やケンちゃんたちからも「あいつは優しすぎるから心配だ」と評される描写がよくありました。
仲間思いで優しい明が、彼らの屍の中に独り立っていたらどう思うか。
そりゃ哀しい。仇を憎しむ。
しかし絶望せず「みんなの死を無駄にはしない」と立ち上がる。
ここが彼をヒーローたらしめている、本来の意味での尊い精神だと言えます7。
これだけならいい話なんですが、厄介なのが人間が圧倒的弱者であるこの世界。
明は人間離れした強さで幾多の苦難を乗り越えるのですが、彼が進めば進むほど犠牲者の屍は累々と増え、明の足元におも~く絡みついていきます。
そんで明さんは優しさゆえにそれを振りほどけない。
まさに明は「大いなる力には大いなる責任が伴う2」を体現している男だと言えます。
外れてしまった人間の道
無印初期の明さんは、それはもう普通の高校生の少年でした。
身体的にもそうですが、精神的にもそう。
島に来る前も後も、自分自身の欲望と仲間を大切する思いとが葛藤し、悩みの種となっていました。
この「自分かわいさ」というものは、彼岸島シリーズで人間性の核とされているように思えます。
自分は死にたくないし苦しみたくない。もしくは自分の大切な人のためなら他人が傷ついてもいい。
これは人間として至極当然の感覚であり、明と同じく強キャラである兄貴ですら抗えませんでした。
ただ、中にはこれを超越し、自分を犠牲にすることを自ら選んだヒーローたるキャラクターもいます。
が、そうして人間性の高みへ至った彼らはおしなべて死んでます。
しつこいようですが、そんな余裕のある世界じゃないからです。
普通の人は自分の身を守るので精一杯。自分はどうなってもいいなどと行動すれば、実際にどうにかなってしまいます。
ところが明さんに限ってはそうならない。
彼もまた自己犠牲心を持つ人物であるにもかかわらず、強さゆえに生き延びている。
つまり、人間性を越えてしまった状態で生き続けているわけです。
明さんは人間からも吸血鬼からも「お前は冷酷だ」「ひどいやつだ」「人間としておかしい」などと罵倒されがち。
ヒーローなのになんでそんなことを言われねば・・・と思いきや、この指摘は的を射ています。
そもそも、忘れがちですが「殺人」は人道にもとる行為ですね。
47日間や兄貴編エピソードなんかではこれが分かりやすくテーマにされてましたが、人間(に準じる人格を持った吸血鬼)を自分の手で日常的に殺せる感覚は、普通の人間には持ちえないものとされています。
それは明や兄貴も認めていたところ。手を汚せば汚すほど、人間の正道からは外れていってしまう。
とはいえその辺は吸血鬼と戦う他のキャラクターたちとも共通部分。
明さんがとりわけ顕著に持つ狂気は以下の点があります。
第一に、明は「自分の身のかわいさ」という概念を失ってきています。
ここは明の変化として面白いポイントの一つ。
修行前なんかはハッキリ「自分は助かりたい」という思いを自覚してますし、修行後もピンチになると自己防衛的な感情が出てしまってました。
それでも修行後は徐々に感情的な躊躇を制御するようになり、時に冷淡にも見えるような判断を下せるようにもなってきましたね。
で、色々あった48日後に至ってはそんなもの消えうせたと言ってもいいかもしれません。
目的を果たすために死ねないというのはあるでしょうが、痛みや苦しみという意味ではもうハッキリ「自分はどうなってもいい」。スーパーアーマー状態。人間じゃありません2。
第二に、明は「自分の命の危機に奮える」という感覚を獲得してしまってます。
「奮える」、つまり武者震いです。これは修行後すぐから自己申告がありましたね。
スポーツならいざ知らず、真剣での殺し合いに対する興奮は正気の沙汰ではありません。
この戦闘民族魂が、あろうことか宿敵である雅に対してもうずいてしまってます。
手段の目的化です。雅を殺したいというより、雅と戦いたいとどこかで思ってしまっている。
復讐の鬼に見える48日後の明さんであっても、いざ雅と対峙するとなればきっといつもの「明さん震えてるじゃないですか」のやりとりが入ることでしょう。
おまけに明さんは自分で言ってる通り、戦いに対して常に本気で命を懸けています。
死を覚悟しているにもかかわらず、戦りてェと楽しみにしてしまう。
強さと引き換えに、やはり頭のネジがぶっ飛んでしまったのでしょう。
これらは明さんの強さを支える一方。彼を「普通の人間」と見なせなくする要素でもあります。
雅が明を気に入っちゃってるのもこの辺のせいなんでしょう。
ところが明さんが帰りたいのはまさに「普通の人間が生きる普通の社会」なわけで、残念ながら普通じゃなくなった明さんに居場所があるとは思えない。
明さんは誰よりも強いからこそ、彼岸島の世界を生き延びることで誰よりも苦しみを味わわされているわけです。
周りの一般人からは「明さんみたいになりたい」「憧れるゥ!」と言われがちな明さんですが、みなさんはどうですか? 明さんみたいに・・・本当になりたいと思うでしょうか・・・。
雅:思いつきで物語を動かすすべての黒幕
雅です。
雅様7とかクソ雅とも呼ばれます。松本先生だけは友達かのように「雅さん」と呼びます。
映えるからといって明を差し置いて最も表紙に出張る男。
異常なカリスマ性
陳腐な表現ですが、雅はまさに「悪のカリスマ」。
プラスかマイナスかはさておき、雅に接した者は漏れなく何らかの大きな感情を抱かされます。
吸血鬼はみんな雅様大好きで、どんな命令にも従い、どんな場でも盛り上げる2。
一方の人間は雅に出くわしたら恐怖におののいてトラウマを負う。明さんだけは嬉々として斬りかかるでしょうが。
この異常に他者を惹きつける力は第四の壁をも超え、たぶん雅が好きじゃない読者は一人もいないでしょう。
推しという意味の好きではなく、雅が出てきたらちょっと「おっ」となるというか、続きを読みたくなるというか、つまりキャラクターとしてやたら魅力的ということです。
じゃあいったい何がそんなにいいのか?
見た目が格好いい。それは間違いない9。
ポーズやセリフ回しがいちいち格好いい。余裕ぶっていつもニヤついてる感じがいい。
明たちに先回りして翻弄する様が格好いい。
そして何より、手に負えない強さがいい。
・・・と書くとなんか完璧超人みたいですが、違います。それじゃどこにでもいるクールな悪役と変わらない。
上記に加えて雅様が他の悪のカリスマと一線を画す魅力といえば、
演出重視なのかなんなのか、やり口がまわりくどい。
いつもニヤついてる一方、気持ちが割と素直に顔に出る。
計画的にもなれるくせに、大事なところは思いつき優先。
一見強くて格好いいくせに、案外すぐ追いつめられる。
この辺り。
まとめると、絶対的で格好いい悪役のくせにどうにもブレブレってところが雅様なのです。
周りの吸血鬼たちはかなり直球に「悪い吸血鬼」を体現し、
ライバルの明も非常に直球に「とにかく雅を殺す」と迫ってくる。
そんな中で、雅は決して直球ではなく、飽くまでそのときやりたいことを気の向くままやってる感じ2。
施設を作ったり人を派遣したりイベントを開催したり研究プロジェクトを立ち上げたりと手広くやってる雅様ですが、
最終的に何を目指しているのかは、シリーズのどこを取ってもいまいち分かりません。
「にもかかわらず」というより、「だからこそ」なのか、我々は雅様の動向が気になってしょうがないわけです。
何をしでかすかわからん。目が離せない。
卵が先かニワトリが先か、雅は平気でブレるということが自明の前提であるがゆえ、
何か整合性の合わないことが起きても「まあ雅様だしな」で処理できてしまう。
黒幕である松本先生雅が涼しい顔してこういうスタンスを取っていることが、シリーズ全体の混沌に説得力を持たせているように思われます。
人間ってやだな
気まぐれな雅様がただ一つ変わらず主張し続けているのが「人間が大嫌い」ということ。
なぜ嫌いなのかの詳しい説明などというものはなく10、雅の人間嫌いもまた「そういうもの」の一つとして表現されています。
人間の何が嫌いなのかは若干言及がされてないこともないですが、
「仲間などくだらん」「人間は愚か」
「無意味に恐れ、無意味に憎み合う」「優れたところがない」
ハッキリしませんが、とりあえず人間同士の関係の持ち方に問題ありとお思いのようです2。
とにかく、雅様の人間嫌いはやはり「人間にとっての地獄」を描くために不可欠な要素。
雅様は吸血鬼を増やしたいわけでも世界征服したいわけでもなく、「嫌いな人間を苦しめたい」これ一本です。
悪役の雅がこういう動機を持っているおかげで、松本先生も心置きなく人間を苦しめることができるのですね。
加えて、雅は吸血鬼の同族に対しても別に愛着はなさそう。
吸血鬼が新人類だなんだということを斧神にはしゃべったらしいですが、雅様はどう見ても一般の吸血鬼や邪鬼を下等生物扱いますし、おそらく詭弁でしょう。吸血鬼権の尊重とか考えてるようにまったく見えん。
雅にとって人間と吸血鬼は別物であり、吸血鬼は人間の捕食者である、ただそれだけ。
なのに吸血鬼から神の如くあがめられているのは、カリスマ性と思い付きでそれっぽいことを言える力のなせる業なのでしょう。
明も人間だけど
人間大嫌いな雅様ですが、明だけはどうやら別枠。
雅様は誰に忖度する必要もありませんから、他人に対する評価は基本的に素直に表現します。大きく分けると4パターンの評価しかなさそう。
- 使える奴は手に入れたい → 配下につけ
- 予想外な奴は面白い → 直々に殺してやる
- 思い通りにならん奴は気に入らん2 → 殺してしまえ
- 興味ない奴はどうでもいい → 好きにしろ
こう書いてみると、やはり他人をおしなべて下に見てますね。
で、明に対する評価は当然ながらシリーズ通して変わってきます。
無印中盤では分かりやすく「配下につけ」とおっしゃってました。
が、無印の一番最後~47日間における明の処遇がきわめてビミョー。
雅の言動を素直に解釈すると「配下につける気はないし、直々に殺す気もない」のは間違いない。
かつ、48日後では全くはばかりなく明に会いたがっている(その割に本気で会おうとはしないが)。
ということは明だけ特別に「面白いからずっと遊んでいたい」評価がなされていると考えられます。
「殺し合いたいけど殺してしまったらもう殺し合えなくなる」というアンビバレント状態。
こうなると、雅が実際やったみたいに「見えないところに追放して、そのうち会えるかもとウキウキ待つ」のが正しい処遇なのかもしれません。
明にとっては腹立たしいことでしょう。
明は雅を何が何でも殺したいのに、雅は明が強ければ強いほど殺したくなくなります。ケンちゃんとの一騎打ちみたいな状況ですね。
つまるところ、雅は彼岸島シリーズの混沌とした魅力の化身。
人間と明さんを苦しめることにかけては雅様に任せて間違いないでしょう。
というか明をどうするのかはっきりせい。一生狙い続けてはもらえないんですよ、明にも寿命があるんだから。
つまり面白いですよね、彼岸島
本ブログの存在意義は、ウェブ上で自分が見つけられなかった情報を載せるところにあります。
つまりこの記事です。
だって彼岸島ってひたすらネタ扱いばっかりで、真面目に取り合われてる場が少ないじゃありませんか。遺憾の意を禁じ得ない。
そりゃネタにしたくなる気持ちは重々わかりますが、薄っぺらいミーム化はよしてください。それじゃ本質的な面白さが表現できてない。そんなんで満足してちゃもったいないです。
他人がいじるネタなんかより、本家本元の本編の方が圧倒的に面白いのです。
最後に一点、松本先生に対して無礼な書きっぷりがあったのをお詫びします。雅様と一緒にしてすいません。吸血鬼なぞに彼岸島はとても描けないことでしょう。
というわけで、自分が彼岸島大好きですということはある程度伝わったと思いますので、言い足りないですがここらで引き揚げます。
全部読んでくださった方がいれば、お時間とらせてすみませんでした。反省はしていません。
- 個人的には展開が知れてても彼岸島のおもしろさが薄れることはないと思ってます。自分もだいたいの展開は知っていて、47日間→48日後最初の方→無印→48日後続き、の順番で読みました。
- 松本先生、死んでいく人には全員もれなく「嫌だ、死にたくない!」って言わせてますよね。人が悪いですね。
- ・・・というようなこと松本先生がCS番組「漫道コバヤシ」でおっしゃってた気がします。気がするだけですみません。そのうち再放送してくれると思うので確認します。
- 余談にもほどがありますが沼正三先生の「家畜人ヤプー」を読んだときも同じような感想を抱きました。物語の展開とか別にいい。それより沼先生のこのクソ細かい世界設定を一生読み続けたいと。この本も変に「エログロ」みたいなイメージがつきまとってるせいで話題にしづらいんですが、過激描写はただのパーツなのだ、本質はこのびっしり書き込まれたSF妄想世界観設定集というところなのだと主張したい。うう記事作りそう。
- たとえ全巻きっちり読んでいたとて、感覚が合わなければ「ギャグマンガだろwww」の感想で終わってしまうんでしょう。個人の感想がそうなるのはまったくしょうがないことですが、広報としてそういう評判ばかりが拾い上げられ、松本先生に対するリスペクトが損なわれてしまうのは憤懣やるかたないのです。
- どちらかというと彼岸島のあちこちにBotWのハイラルかってくらい武器が転がってることの方にツッコミたくなる気がします。
- とはいえ、さすがに48日後冒頭の丸太はツッコまざるをえない。流浪の丸太持ち明さんはおもしろすぎた。ただ、これらの明らかな「丸太ネタ」は、松本先生が丸太好きファンへのサービスとして盛り込んでいることを忘れてはならぬと思います。
- 例えば足長ばあさんの感染に対してとかは、傍目八目でしょうと。これもまた重要じゃないゆえ省略して1コマで書かれてるから面白く見えるのかもしれませんが、それを「うかつ」とツッコむのはあまり面白くない(個人の感想です)。
- 前述の漫道コバヤシにて、雅の衣装はクイーンのPV(I’m Going Slightly Mad)でのフレディの衣装が元ネタだそうです。
- 少なくとも48日後30巻までありませんでした。明が強くなった修行内容と同じく、「自明の前提」であるゆえに今後も言及されることはないだろうなと思ってます。