「当たり前」が持つ攻撃性
私は「サブカルチャーが好き」と自称しています。
サブカルチャーとはすなわちメインカルチャーではないもの。
メインカルチャーが多数派の好むものだとすれば、私は多数派の好むものを嫌がる傾向があります。
正確には、多数派が持つ「当たり前」という雰囲気が苦手なのです。*1
スポーツ興味ない人間として
たとえばスポーツ観戦。
ワールドカップ、甲子園、オリンピック。
パズルクエストやらマルチバースやらにみじんの興味も持てない人と同じように、私はスポーツの観戦やら応援やらというものに興味が持てません。
ニュースが始まれば他の「有益な」チャンネルに替えますし、テレビで中継をやっている日には「何も見る番組ないな」と思います。
「どうでもいい」ニュートラルというよりは、「関わり合いになりたくない」というマイナス寄りの感情を抱いています。
これって、リアルで公言できるものではありません。
日本代表戦とか高校選手権を一切見ないなんて言ったら、「なんで?」と聞かれることでしょう。
「感動するのに」と主張されて「いや、別に」と返したら、冷血だと思われるでしょう。
スポーツを自分でやることは決して嫌いではありません。
学校の体育の授業も嫌いではありませんでしたし、成績も平均くらいは取れていた気がします。
スポーツという事柄自体が問題なのではなく、スポーツを取り巻くメインカルチャー意識によって、「興味のなさ」が「苦手」へと助長されているのだと思います。
はみ出し者への「なんで?」攻撃
スポーツというものは、圧倒的なメインカルチャーです。
しかも子供から大人まで当てはまるもの。
メインカルチャーは、誰もが受け入れて「当然」と思われます。
だから、興味がないなんていうおかしな人がいれば「なんで?」と追及されるのです。
なんでと言われても、興味がないものはないのです。
「存在しない」ことを証明することができないということは、理由を求めることもできません。
することが当然という前提の「なんで?」には次のようなものもあります。
- 「『君の名は。』観てないの? なんで?」
- 「結婚しないの? なんで?」
- 「お盆帰省しないの? なんで?」
多くの場合、人が理由を求めるのは、それが「当たり前」から逸脱したことだからです。
逆に言えば、理由を尋ねるということは、それは当たり前でないのだという指摘をしていることと同義になります。
たとえば会社で新入社員に対して「例の件、報告しなかったよね。なんで?」と尋ねれば、それは「本来報告するのが当然のことですよ」という指導につながるでしょう。
また「今日会社に来たんだ。なんで?」と上司が聞けば、「本来お前なんか来なくていいのに」というようなパワハラにとられてもおかしくありません。
「なんで?」という一言には発言者の価値観による攻撃性が多分に含まれており、言われた方はそれを敏感に感じとります。
しかし発言者本人はたいてい意識していないのです。
なぜなら「なんで?」という疑問を持つこと自体が「当たり前」だから。
自分は普通であなたは異端、だからあなたの方が異端の理由を言うべき、という感覚です。
多数派は、多数であるというだけで大きな権力(人を従わせる実力)を有しているのです。*2
前提を押しつける「どうしたの?」攻撃
「なんで?」と似たような攻撃性をはらんだ質問として「どうしたの?」があります。
「髪切ったんだ。どうしたの?」って質問にどうしてこう違和感を覚えるのか。
「似合うね」「イメージ変わるね」「前の方がよかったかも」など、見た目上の感想は別にいいのですが、「どうしたの?」と聞かれると苦笑いせずにはいられません。
具体的には「失恋=髪を切って未練を断ち切る」「髪を切ることで新しい自分になる」というステレオタイプ的なイメージを当てはめられている印象を覚え、それが嫌悪感につながっています。
個人的には髪を切るのは爪を切るのと同じような感覚であり、意味を問われるようなものではないのです。
伸びてきてうっとおしくなったから切る。
暑くなってきたから切る。
「爪切ったんだ。どうしたの?」と言われれば、誰だって「どうもしないけど・・・・・・」と苦笑いするでしょう。
どうもしていないのに、どうかしたことが前提である質問をされるのが押しつけがましいと思ってしまうわけです。 *3
自分の「当たり前」に気付いていたい
主観を持つ人間は「自分=当たり前」ととらえがちです。
他者に理由や事情を尋ねるとき、それがプライベートなことであればあるほど、自分の「当たり前」を押しつけることにならないか注意するのが賢明でしょう。
そもそも「当たり前」という考え方は基本的に功よりも罪の方が大きいように思います。 というのも「当たり前」と思うことは理由を問わない=思考停止につながるからです。
ルーティンワークとしていちいち理由を問わない方が適切な場合もありえますが、理由を考えない=目的を分かっていない=本質をとらえた動きができないという自体にも陥りやすくなるでしょう。
とはいえ現実的には、「当たり前」という暗黙の前提を利用せずにコミュニケーションを取ろうとすると相当ぎくしゃくするはず。
分かってても自分もそういう口を利いてしまうこともあります。
嫌になりますね。
ただとりあえず、「意識する」ということは重要な変化です。
知りもしないことはどうしようもありませんが、知っていることで正しい方向を向けたり、他人の気持ちにも気付いたりすることができるはず。
頭の中のものを行動に移すのはたいへんな困難ではありますが、まずは頭の中に据えることが第一歩であるはずです。
人間社会って大変ですね。
今回の記事はここまで。
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