スポーツに興味がないという事象を検索する人たちへ

「スポーツ 興味がない」で検索してこのブログに来る方が非常に多い。

言い訳をしておくと、google先生が勝手にここの記事を上位に表示するだけなのです。
管理人がSEO対策を練りに練って検索結果にしゃしゃり出ているわけではないので許してください。
不愉快な広告とかアイキャッチ画像とかはないので不快指数は低いはず……。

さて、せっかくこの記事にたくさんアクセスしていただいているので、結局何が言いたいのかをちゃんとまとめておきたいというのが今回の趣旨です。
どんな目的でアクセスされているかを考慮した上で、それぞれに対して私の考えを述べておきます。
ちなみにこれで「スポーツ興味ない三部作」になります。偉そうですね。

  1. スポーツを観ない人間――当たり前じゃなくてもいいじゃない
    →社会的な決めつけに閉口していたときに書いた愚痴っぽい記事。
  2. やっぱりスポーツに興味がない心理を勝手にタイプ分類
    →愚痴っぽいのは読んでて嫌な感じと思い直して軽く書いた記事。最近アクセス数が多くて筆者がびっくり。
  3. ★いまここ
    →軽く書くとなんの意味もない文章ができてしまうと思い直して書いたこの記事。文字が多い。

なおここで言っている「スポーツ」はほとんどプロスポーツ(≒観戦する対象としてのスポーツ)のことです。

検索する人の目的を考える

さて、検索に使われているワードは「スポーツ 興味ない」「スポーツ 興味ない 心理」「スポーツ 興味ない人」などです。

まずこの検索を行っているのはどういう人か考えてみましょう。
自分のことを検索するのか、他人のことを検索するのか、あるいは一般論か。
そして検索することで何を知りたいのか。

  • 自分がスポーツに興味がない
    • 同じ考えの人がいないかな」と共感を求めている。
    • 「こう考えてしまう自分はどうふるまえばいいのか」と行動指針を求めている。
  • 周りにスポーツに興味がないと言い張っている人がいる
    • 「こんな考え方のやつ絶対おかしい」と批判を求めている。
    • 「こう考えてる人にどう対応すればいいのか」とトリセツを求めている。
  • 一般論として
    • 「この考えは社会的に正しいんだろうか」と価値判断を求めている。

答えを出すには問題がなくてはならない。
何を言いたいのかまとめるためには、誰に対してかをはっきりさせておかないといけません。

ちなみに私なら「自分もスポーツに興味がないから同じ考えの人いないかな」で検索しますね。

そしたら一つずつ見ていきましょう。

対象別に言いたいことをまとめる

自分がスポーツに興味がない

「同じ考えの人がいないかな」と共感を求めている人へ

まずは安心してください、同じ考えの人はいます。意外とたくさんいます。

日常的にはなかなか出会わないことでしょう。
なぜなら、「これに興味がある!」という人々はその話題を取り上げて盛り上がりますが、興味がないということは話題にも出さないということだから。
わざわざ調べない限り、興味がない人の存在というものは表に出てきにくいものです。

本来、黙っている必要もなければ好きなフリをする必要もありません。
趣味嗜好の話なんだから、何が認められて何が認められないと決めつけられるものではない。
だから興味がある人も興味がない人も立場は対等なはず。

ですが共感を求めている興味ない派のみなさんは、肩身の狭い思いや迫害されたと感じる経験があったのでしょう。
ひょっとしたら人格を否定されたのかも。あるいは友達をしらけさせてしまった苦い体験が忘れられないのかも。なじめない場で一所懸命なじもうと努力して疲弊しきっているのかも。

非常によく分かります。なんでこんなことで苦労しないといけないんだと思ったことでしょう。

スポーツに興味がなくて何が悪いというんだ!
そのコーナーは自分には時間の無駄でしかない!
選手の名前なんか一人も知らないぞ!
でっかいイベントがあるときだけ極端に時間を使って応援するのはやめろ!
招致が決まってから環境面を整えようたって間に合わないだろ!

興味がない人間の筆者が声高に叫んでおきますので、少しでも援軍だと思ってもらえれば幸いです。

「こう考えてしまう自分はどうふるまえばいいのか」と行動指針を求めている人へ

まずは確固とした自信を持とうじゃありませんか。
興味の有無で罪悪感など持つ必要はないのです。

もし自分もスポーツに興味を持ちたい、詳しくなりたいと願う動機があるのならば、励むしかありません。自分がどういう理由で興味が持てないのかを分析することで、どういう観点ならば興味が持てるかを考えていくのです。
なかなかの茨の道です。ですが、自分にない考え方を身に着けようとする努力はきわめて尊いものだといえます。努力をしていること自体がすばらしいのだから、結果を焦らずぼちぼち歩いていきましょう。
スポーツに興味のあるご友人がいれば協力を仰ぐのが一番です。もしくは、同じく興味がない人と励ましあって努力をしてみるとか。資格の勉強みたいですね。

もし別に好きになりたいと思わないのならば、変わる必要などありません。
ただし、興味ないことが尊重されるべきであるのと同様、興味あることも尊重されるべきだと忘れないように。
多数派を単なるミーハーだと見下さず、個々人が楽しむものの多様性を受け入れてください。まあ見下しててもいいけど、表には出さないように。
不愉快な思いをしたくなければ、自分も不愉快な思いをさせてはいけないのです。

世の中にはスポーツ選手の名前を一人も知らない人間もいれば、ハリウッド俳優の名前を一人も知らない人もいます。どちらが上だなんてありません。
でも自分に知らないことに詳しい人のことは、少なからず尊敬の対象としていいと私は思っています。その人がクソみたいに押し付けがましいオタクならちょっと考えますけど。

周りにスポーツに興味がないと言い張っている人がいる

「こんな考え方のやつ絶対おかしい」と批判を求めている人へ

批判したいと思うに至るきっかけが何かあったのだと思います。
みんながせっかく一丸となっているのに、斜に構えたあまのじゃくが水を差したんでしょうか。
それは観戦する立場でしょうか、あるいは競技者として参加する立場でしょうか。
問題となっているのは本当にその人の「興味」の部分なんでしょうか。

スポーツに興味がないこと自体は、残念ながらそう簡単に変えられる部分ではありません。
本人が変えたいと思ったところで、非常に大きな労力とストレスを要するものです。

それを前提とした上で、問題のその人はどうすれば良かったと思うでしょう。
興味がある態度をとってみせればよかったでしょうか。
その行為によって生じるストレスをその人が引き受けなければならない理由はあるんでしょうか。
本人が甘んじて決めたことならまだしも、他人がそれを要求する理由はあるんでしょうか。

理由があるとしても、それは「興味がない」ことに対する批判にはつながりません。
「空気を読めなかった/読まなかった」ことに対する批判であり、その是非は別の議論になります。

あるいは、興味がないこと自体を批判すべきだと感じるでしょうか。
オリンピックやワールドカップは、日本人としての帰属意識を表現するために積極的に応援すべきと感じるでしょうか。
第一に、何に帰属意識を持つべきかは他人が決めることではありません。他人をカテゴライズすることはコミュニケーションを単純化するためには必要ですが、それに基づいて特定の態度を要求することは押し付けに他なりません。
第二に、帰属意識と「積極的に応援するかどうか」は別の話です。スポーツには数えきれない競技があります。マインドスポーツやEスポーツもあります。日本人なら応援すべき、というならばすべての競技を積極的に応援するのかい、と興味ない派としての私はツッコミを入れます。メディアが取り上げる一部のメジャー競技/流行競技だけに対してそんな話をされても、理屈が通らないではないかと。

上記は興味ない派の筆者による一意見にすぎません。
違う考えの人はいるでしょうし、反論もあるでしょう。
ですが相手の意見を聞くということは、どんな立場においても必要だと思って読んでやってください。正しいことしか発言しちゃいけないなんて恐ろしい世界です。

「こう考えてる人にどう対応すればいいのか」とトリセツを求めている人へ

必ず重要になってくるのは、相手の意見を聞き入れ対話の姿勢を持つということです。

相手はどんな要素に対して「興味がない」と言っているのか?
まずはそれを知らないと話ができません。
相手の興味が持てない部分と、自分がそれを許せないと思う部分は噛み合っていないかもしれないのですから。

それから相手がどうしたいと思っているのか?自分は相手にどうなってほしいと感じるのか?
これも対話しないと決められません。
相手はあなたと楽しく会話するためなら勉強したいと思っているかもしれないし、死ぬほどどうでもいいと辟易しているかもしれません。死ぬほどどうでもいいのを我慢して勉強しようと努力しているかも。
それを知った上で、相手が興味を持てるように紹介してあげてもいいでしょうし、相手に別に愛着がないのならば単に話を振らないであげるだけで相手は助かるかもしれません。

結局、その人がどういう意味で「興味がない」と言っているのかによって変わってきます。
ルールを知らないのならば教えてあげれば喜ぶかも。大声で騒ぐのが苦手なら静かに二人だけで過ごせば楽しめるかも。地獄の犬小屋のように興味が持てないならそっとしておいてあげるのが最善かも。

ともあれ自分にとって「当然」のことであるほど、それに反する立場の意見を聞いてみたら新たな発見があるはず。
納得できないとしても、自分が具体的にどんな要素を大切にして、どんな要素が受け入れられないのかを見つめ直せれば思えば対話に意味があったといえます。

一般論として

「この考えは社会的に正しいんだろうか」と価値判断を求めている人へ

私には是非の判断はできません。
できるとしたら「一方的な押し付けは非」ということだけ。

現状ではスポーツはメインストリームな文化で、様々なメディアで取り上げられるのが「普通」で「自然」な光景です。
ゆえにそれを要らないという者が「不自然」だとみなされてしまう。

自然だと思えないことも、不自然だと思うことも、その感覚はどうしようもなかったりします。
ですが、自分の感覚が絶対であると主張することは誰にもできません。

「社会的に正」という抽象的な言葉は非常に危険です。何を指してるか分からないでしょ?
議論するならばもうちょっと具体的な定義づけをしないと、みんなの論点が食い違って話になりません。

「興味がないことを個人が人前で堂々と口にしてもいいか?」という意味であれば、私はいいと思います。個人レベルであれば趣味嗜好の問題です。
ただ、政治家やテレビキャスターが口にしてもいいかどうかは、単純にうなずけません。ある役割においての公的な発言は、一個人のプライベートな発言とは意味合いが変わります1

「興味がないことは望ましくないか?=興味ない人は興味を持つよう努力すべきか?」という意味であれば、私は違うと思っています。
内心の話だからです。帰属意識という論点であれば上記の通り、他人がとやかく言うことじゃない。空気を読んだ行動をすべきかどうかという論点であれば、興味があるかどうかとは別の話です2

要は価値判断はその都度あなたがしてくださいということです。
対象者と議論した上で判断するのが最善です。
Webで検索して出てきた記事をうのみにしてしまうのはよろしくない。
私のこの文章もツッコミどころ満載だと思いますので、批判的に見て自分の意見を構築するタネにしてほしいと思います。

それはそうと東京オリンピックが迷惑

迷惑だな~。
東京でやるのやめてほしいな~。

言いたいことを言ったところで今回の記事はここまで。


  1. でも例えばもしスポーツキャスターがプライベートで「興味ない」と発言してるところをリークされて報道されたら叩かれるんでしょうね。これは公人において公私の区別があるのかどうかという別の問題……。
  2. 別の話ですが、空気を読むことには功罪があります。正確には、空気を読むことというより「他人の話を自分の意見に反映すること」の方が重視されるべきだと私は考えています。

コメント

  1. 匿名 より:

     私はスポーツ観戦どころか普通の人が興味を持つ、「映画、ドラマ、読書、歌、アイドル、ファッション、車、バイク、SNS、酒、たばこ、ペット、旅行、凡人、ハロウィン、恵方巻etc」もほぼ興味ない。
    (優秀な人は好き)

     週/4でスポーツジムに行くくらい運動は好きですが、スポーツはやるのもあまり興味無いです。
    (学生時代は思いっきり運動部でしたけどね)

     歌番組やテレビドラマ、映画がやっていると、「ああ、今日は見る物無いな」と思います。
    (否、歌だけはむしろ嫌い、歌番組が流れているくらいならばテレビを消します)
    (運転中も絶対に音楽を流さないし、テレビゲームも音を消してやっても問題無いです。)

     パズルクエストは筋トレにインターバルに丁度良いのでかなりやっていますが、昔の対戦格闘ゲームの流れで好きなだけで、マーベルの本も映画も娯楽として見た事も無い。
    半分以上のキャラは「このキャラ何なんだろうな・・・」と思っています。

     多くの物の人並み以上の情報は取集しているので、周囲からは物知りだと思われています。

     でも、有名な本や映画、ドラマは、あらすじは調べるだけで本物は見ません。
    超有名映画は、字幕のDVDを借りてきて早送りしてチェックします。
    情報番組も数多く録画していますが、週末に早送りしながら一気に見ます。
    (1時間番組を10分くらいで見る感じ。)

     そんな事をする理由は、料理が趣味で仕事なので、大衆の動向には常にチェックしなければならないと心がけているからです。
    (自分の興味の無い目線からも物事を見なければ、視野が狭くなる。)

    休日も仕事の勉強と研究をしているので、ほとんど外出することもありません。

     「敵を知り己を知れば・・・」ってやつです。
    (その貪欲さのおかげで仕事は優秀で、職場で私に逆らえる人はいないです)

     自分でも「人と興味を持つ点が違う」「どこにも属さない変わり者」なのは子どもの頃からわかっています。
    なので「当たり前がどうこう」なんて随分前から気にしていません。

     「尾崎豊」が自由がどうこういっている歌を聞いた事がありますが、実に滑稽です。
    要は「自分を認めて欲しい」って事なのは解りますが、何で「他人に認めて欲しい」のか理解できません。

     他人は他人、親だろうが教師だろうがあまり関係ない。
    迷惑かけない様に、そこそこ振舞えばいい。
    あとは、勝手にやってくれ。

    私は「自分が最高なのを自分だけが知っていれば十分」です。

     人がサボっていようが、自分が損をしようがそんなものは関係ありません。
    「実力と事前からの防衛準備」が出来ていればば、他人からの攻撃も関係ありません。
    そもそも、たとえ異端でも合理的に仕事を進め大きな問題を起こさなければ攻撃もされません。
    (そのかわり、難しい仕事は頼られても、チヤホヤされる事もありませんし、出世もしません)
    ただ、それには人一倍ぼ努力は必要ですけど、集団内で自由きままに振舞う為には代償が必要なのは当たり前です。

     何もしないで得られる地位、権利なんてたかが知れています。

    • yakan3 より:

      「自分が最高なのを自分だけが知っていれば十分」いい言葉ですね。恐縮ながら共感します。
      他者からの承認や他者への攻撃によらないと価値を見出せない人が大勢いる中で、内発的な動機でもって行動できることは一つの能力だと思っています。
      その動機を自律につなげるのはより難しいことです。私も身に着けたいですね。